2010-04-08

月の物語第三章:満月の狭間の闇夜、ダグラスファーの森






都会的資本主義的価値観でずっと生きていた数年前、アラスカの大地が私のカチンコチンの頭を叩き、それをきっかけに違う価値観を追い求めるようになった。この新しい価値観は、説明をしだすとどこか抽象的でスピリチュアルで、ちょっと精神世界に入ってしまいそうな微妙に危ういラインなので、まだまだ学習中の私は深くを語ることはできないが、以下のことは絶対的な真実だ。

森の中にいると落ち着く。
森ともっともっと深く対話できるようになりたい。


そんな私にとって、カナディアンロッキーの森の奥深くでひっそりと暮らすMr.Wは、格好の教師だ。動物と鳥と木と自由に会話できる彼と一緒に歩いていると、自分までもが、いつもよりも少しだけ木々の声が聞こえる(気がする)。ユーコンの帰り道、1年半ぶりにカルガリーの空港へ降り立つ。Mr.Wの家を訪ねると、熱狂的に尻尾を振って甘えてくるゴールデンレトリバーのオルカと共に、彼は温かく私を迎えてくれた。

私がロッキーに到着したこの日、「おやおや、北から一緒に寒波も連れてきたのかい?」と笑われるほどに久々に大雪だった。雪は、音もなくしんしんと降り積もり、みるみるうちに人の足跡を車の轍を消していく。庭の大きなアスペンの木は、あっというまに白く雪化粧していき、橙色の暖かな街灯に照らされた小さな街は、幼い頃絵本で目にしたクリスマスの景色のようだと錯覚する。幻想的な美しい夜だった。

テレビのないこの家は、犬の鳴き声を除いてはとても静かで、最低限に照らされたオレンジ色の電球の下、用意してくれた夕食をいただく。

夕食は、ミュール鹿のステーキだった。

友達が仕留めてきたのを、特別に分けてもらったんだ。
Mr.Wは誇らしげにそういうと、慣れた手つきで、乾燥させたファイアーウィードとジュニパー、少々の赤ワインで下味をつけ、よく油の馴染んだ鉄製フライパンで軽く焼き目をつける。夏に極北を訪れれば必ず見かけるファイアーウィードが、まさかハーブとして口にできるとは思ってもいなかったが、北の草は、押し付けることのない優しい香りで鹿肉とうまく調和していた。

脂肪の全くない、力強い噛み応えある赤身の肉は、量をそれほど口にせずとも不思議と満足できる質感だ。生き物の魂が、巡り巡って私の口へと入ってきたと確信させられる。BC州のオカナガン産の赤ワインを一口。添えられた野菜のグリルとブラウンライス(玄米)も、素朴な調理なのにしっかりと滋味深く、「きちんとした豊かな食事」に、お腹も心も満足した。

夕食後、ルイボスティーを大きなマグカップに入れて寛ぐ。ナショナル・ジオグラフィックの特別号をめくって写真を楽しみつつオルカの遊び相手をしていると、ひょんなことから、会話はダグラスファーの話になった。

ダグラスファーは長生きだ。
樹齢何百年なんていう木はざらにある。

この近くにもある?
爺さん巨木に会ってみたいな。

Mr.Wは、頷いた。
ダグラスファーの森へ散歩にいくかい?

私は一も二もなく首を縦に振る。

ただし、条件がある。
「森の中を歩く間、ヘッドライトは点けないこと」
「話をしないこと」
この二つが約束だ。守れるかい?
Mr.Wはそう言うと、車のエンジンを温めるためにガレージへと消えた。

外の雪は止んでいた。
私は、体を冷やさないよう、急いでありったけの防寒着を着込む。ちょっと考えて、ヘッドライトはポケットの中に忍ばせることにした。真っ暗な森の中、もし迷子になったらパニックだもの。

車は、近くの湖のほとりへと向かった。
雲の隙間から星が見え始めていたが、それでも月の出ていない夜は十分に暗い。

駐車場で車を降りる。
エンジン音の止んだ駐車場は、本来そうであるはずの静けさを取り戻し、目の前の真っ暗な森は威圧的な雰囲気で存在していた。森のエネルギーに負け、入り口で怖じ気づき足が止まる。そんな心を知ってか知らずか、Mr.Wは、私を置いてずんずんと歩き出しはじめた。後ろ姿を見失わないよう必死でついていく。

やがて、少し開けた場所に出ると、私から5mの距離を保ったまま、彼は気配を消し、森に同化した。森を深く知る彼が、私に蘊蓄をたれることはあまりない。この日もそうだった。入り口まで連れてきてはくれるものの、そのまま放り出された格好だった。

視覚を塞がれ、しゃべることもできない私は、ひとりぼっちにされ、戸惑う。

いったいどの木が私が探す木なんだ?

闇夜の中から、ほのかに黒いシルエットが浮き出てきた。目が慣れてきて自分が森の呼吸と同化してみると、月が出ていない夜でも、雪の上はわずかに光が存在し、漆黒の闇ではなかった。雪の白という色は、何かの光を反射していた。

そろそろと歩き出し、木に近づく。
幹を触る。葉を触る。
匂いを嗅ぐ。
葉擦れの音を聞く。

私が把握したダグラスファーは、長年の重みに耐えかねて少し腰が曲がり、幹からは、おばあちゃん家の畳の部屋の冬の午後の日溜まりの匂いがした。

なんだそりゃ、な喩えだが、懐かしく知っていて温かい、そんないい匂いがしたんだ。

5分?10分?
どれだけその場所にいただろうか。十分にダグラスファーとの会話を楽しんだのを見届けたかのように、どこかに消えていたMr.Wはまた姿を現し、私たちはゆっくりとその森の中を静かに散歩しながら、駐車場へと戻った。

途中、ビーバーダムで足を止めた。風もなく鏡のような湖面のその池をじっと見ていると、無数の星が映りこんでいて、星の明るさを想った。

近くの木の上では、一羽の梟がホホホホホ、と鳴いていた。


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