2009-07-01
食えないヤツ (知床expedition final)
あ、知床の話、もうひとつ残ってたよ。
*
途中で買い出しにいけない、長期バックパッキングの食糧計画。NOLS仕込みの私は、考え方が微妙に教科書チック。
C(糖質) x60%
F(脂質) x10%
P(タンパク質) x30%
の組み合わせを、1日1.5ポンド(約680g)(=2500-3000kcal)から2ポンド(900g)。重さは、アクティビティの強度にあわせて変える。
・・・という前提の元に、いろいろ組み合わせを考える。
が、一緒に知床を旅した北海道ギャングたちは、私の、この上品で優等生的な考え方なんて、へー、ふーん、と軽く鼻で笑い飛ばす。
買い出しについていくと、気ままに選ばれたカゴの中身といえば、「ええっと、それじゃあ、全然足りてないし、テキトウもいいところでは・・・」と、不安になるような中身だったのだ。が、今回は、連れて行ってもらう立場なので、いつものように強気な発言もできず、ドキドキしながらスタート。
蓋を開けてみれば、それは当然のことで、私と彼等との、最初のスタート地点が、まったく違うからなのだった。食糧はなくても釣り竿がある。醤油と油がある。
ギャングたちのやり方は、「食糧は現地調達」。
「食糧を沢山持って行ってしまうと、狩猟本能が萎える」、のだそうだ。
清流の脇に生えている山菜いろいろ(名前忘れた。ギョウジャニンニクとかウドとか?)、海の幸いろいろ(名前は覚えてるけど大人の事情で書けない。カレイとか。)、私には、ただの雑草にしかみえていない植物たちを、私には、存在すら考えもしない海・川の幸を、スバヤク発見し、食事の度にわんさと収穫してきては、器用に捌き、器用に調理。
1日自然のなかで遊び疲れてぺこぺこのお腹、
キレイな景色と空気のなかで、
シンプルで超新鮮な、大地とオホーツク海からの贈り物
と、トーキョーで、どれだけ高いお金出しても決して手に入れることのできない、極上の料理を、毎食味あわせてもらった旅だった。
*
アラスカに行くようになって、
食糧は、スーパーやデパートで買うのではなくて、野や山にはいって「(ムースや鮭やブルーベリーや、その他いろいろ)とってくる」、出来合の総菜でなく、「原材料から料理する」という考え方を学んだ。ああ、そういえば、 ムースの解体も手伝ったっけ・・・。
山の恵みを知る友人と歩けば、山の中は、食べ物で溢れている。そう、日本で山に住む友人たちと遊ぶようになって、
野菜は、スーパーで袋詰めになっているのではなく、畑を耕したり、山に分け入ってとってきたり、と、大地がはぐくんでくれているのだ、と、改めて知った。お金を払わなくても、地面から、大根が、ニョキニョキ存在していることに、今でも、おお、と軽く驚くし、そう驚く自分にも、驚く。どれだけ、生きる力を失って、貨幣経済の都会生活に取り込まれているのだろう。
おまえは何を今更・・・と言われることも多々あるが、町育ちの人なら、この私の感覚、少しは分かってもらえる・・・と思う・・・。
買うのではないゴハンに憧れつつも、アラスカの原野に憧れつつも、本音をいえば、魚はできれば刺身か四角い切り身でいてほしい。血みどろ鱗まみれになりながら捌く、その基本作業にすら抵抗感じてしまう。生身の肉(魚)に触るなら、できれば菜食主義者でいたい・・・と弱気になる自分は、なーーんと、エセ・アウトドア人間なんだろう。
このことは、考えれば考えるほどに、自己矛盾で、自己嫌悪。
都会人だから憧れる、極北の原野、なのだろうか。
まとまりないまま、今日の日記は、終わります。
▲だから、この主人公には、胸が痛くなる。都会人で、荒野に憧れる若者。
▲「人は山でも街でも、年がら年中お客さんをしているのが当たり前になっているようにみえる。恒常的なゲストという人生に何の魅力があるのか・・・」。
▲「自分が暮らす土地で、他の動物を捕まえ、殺し、その肉を食べ、自分が生きていく。そのすべてに関して自分が責任があるということは、とても大変なことであると同時にとてもありがたいことだと思います」。(後書きより)
▲この特集、日常生活のPFC、三大栄養素の話書いてありました。走るようになって身体と向き合う時間が増えたこの頃、ターザン好きだ。
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